なぜ「楽しい」だけで生き続けられないのでしょうか。経済的基盤がないためです。あなたたちはすでに”楽しみ”をつくる糸口を知っているが、経済的な活動には結び付きにくい。言い換えれば、楽しさが続くならばそれでいいのです。しかしながら「楽しい」は持続しない。なぜか。
例えば計算問題について思い出してみましょう。
考えているとき、必ずしも面白いとは言えません。ですが、解法をひらめいた瞬間、またそれを書く瞬間、楽しさが垣間見える。もちろんそれは決して世界であなただけができることではありません。隣の人もできます。多くの人がそれができるにもかかわらず、それと自分ができるようになることとは違う。自分自身ができるとき、自分自身にのみその楽しさが訪れるのです。
何によって?自己表現によって。と言い換えられるでしょう。自己表現というとわかったふりをしてしまいそうなので、それがどのようなことか考えてみるために、「自分事実の現前」と言い換えてみましょう。
楽しみをつくる糸口とは自己表現であり、自分の潜在性を目の前に現すことです。
ここで”自分”とはあくまで自らの意識的領分であり、それは身体的領分にとどまりません。推しでもいいし、孫でもいい。自分のようにかわいがっている何かの事実の現前。それが自己表現です。もちろん身体的領分として自分の統制下にはありません。コナトゥスが他者の身体的領分に、自らの身体的領分以上の影響を及ぼすことはありません。よって、自分以外の何かによる自分事実の現前は偶然的だといえるでしょう。
逆に、自分の身体的領分であれば必ず糸口を見つけられるのか。そう簡単ではありません。
より創造的な、別の例を考えましょう。
鍛冶職人は刀剣を、パン職人はパンを、トマト農家はトマトの事実を表現します。ただし、ここでいう刀剣、パン、トマトは一般定義のそれの範疇ではなく、そこから逸脱するそれです。これまでに無いほど切れるあるいは切れない刀剣。これまでにないほどおいしいパン、やわらかいパン、硬いけど食べられるパン。これまでにないほどおいしいトマト、やわらかいトマト、硬いけど食べられるトマト、透明なトマト。
これらの現前は簡単なことではありません。新しいことを起こそうとする力、潜在的な事実の現前を目論む力、コナトゥスが触発する契機。契機は必然性ではなく偶然性にあります。偶発的な発芽が存在論的事実を現前させる。
コナトゥスは発芽の道しるべとなります。何かを表現する者に訪れる発芽の瞬間に、”楽しさ”は副次的に展開されます。
では、なぜ楽しさは持続しないのか。
保有できないからです。単発の刺激だからです。蓄積ではなく、発散だからです。一度満たされた悦はたちまち発散するのです。
したがって、須らく小さい楽しさに、小さい喜びに、小さい愛おしさに、気づくべきです。その気づきこそが事実が現前した証ですから。
あるいはスキゾに飛び回る、外に逃げることによって偶発性を高めることも、楽しさの連続という観点で有効な手段でしょう。
いずれにしても楽しさは持つこと、保つこと、一定に続けることと結び付けることはできません。風のように通り過ぎるものであり、抱え続けられるものではありません。楽しさ自体もまた次の楽しさへの中継点なのです。どこに?楽しさとは、生成変化において個々人に課せられた”固有の問題”の解法、そのチェックポイントであり、目的地は固有です。
つまり本来的にはコナトゥスによって個々人の解法を探っていくことができるはずです。しかし、現実はそうではない。他者によるその抑圧が横行する。あるいは自らの楽しさを、その過程の苦労をつり合いにして自らの手を伸ばさない。そのような貴族的思考が個々人の事実の現前を不可能にする。これは加速主義への期待感に表れています。カタストロフの待望、しかしながら自分の手は使わない。楽を以て楽しさを失う。つくる者、表現する者に現れる楽しみを資本主義によって自ら手放していることに気づかず、楽を手に入れる。定住は確かに安心を生じさせますが、それは楽しいとは区別されます。発芽は訪れることなく朽ちていく。
以上の試論はスピノザにおける自然の知覚に近づく手助けになります。
我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する<あるいはそれだけ多くの理解を神について有する>。(畠中尚志訳, "スピノザ エチカ (下)", 1951, p.147)
したがってあなたたちが「楽しい」を求めるのは固有の問題を解き進めるためであり、言い換えれば自分事実の現前を求め続けているのです。
最後に、犯罪は事実の現前でしょうか。現れて望ましい事実とは何でしょうか、何もかもが自己実現に当たるわけではないことは明白です。あなたたちは倫理について、改めて考えていく必要があるでしょう。