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情動するとは別の仕方で(3)

現前する世界は相対的である。現象学的な開けがそうであるように、世界は認識器官によって把持される。そこには自己というフィルターがかかる。

これに対して認識前的な物自体を想定することができる。認識を前提とする感覚器官を通した物自体への到達は不可能だが、思考による思弁的な到達は発展途上である。数学的、科学的な方法はその筆頭であり、思考における物自体を擬似的に想定することが可能かもしれない。

思考による到達が可能であるとして、それはどのようなものであり、あなたたちのメランコリーを、憂鬱をどのように緩衝できるだろうか。

結論としてその全体像を主張すれば、今その瞬間の絶対世界は時間を保持しない。絶対世界に時間はなく、それは世界を構成する最小単位存在(これがクォークと電子なのかはわからない)の配置、矢印エネルギー、およびその関係式である。

 

まず最小単位存在について。これを単と呼ぶことにする。単は科学のフィールドで呼ばれているクォーク、電子、亜粒子である可能性(またはそれより小さい単位かもしれない)が高い。あなた自身もすべてきり崩すことができれば単になる。それ以外ではない。これは物質的な話だが、逆に絶対世界は物質以外の何であろうか。還元できない思考があるではないか、と思われもするが、思弁的に世界すべてを俯瞰できるならば、それは脳の電子の総体ではなかろうか。まずは絶対世界を単の配置として捉えることができる、ということを主張してみる。

 

次にベクトルエネルギーについて。同様に絶対世界、すなわち今この瞬間の断面、フレームを切り取ると、その接合が問題となる。つまり、断面-断面間の接合はどのようにして可能だろうか。クォーク、電子、あるいは単は、次の断面の配置をどのように決定づけているのだろうか。この答えとしてあなたは方向エネルギーを持ち出すことにする。単がもつベクトルエネルギー、ある方向にある力があるということ、そのエネルギーが単を存在たらしめる。

次のフレームで単はそのエネルギーをもとに次の配置につく。いや、次の配置に位置づくのであって、前のフレームにおけるエネルギーがこの移動に消費されたとは言えないかもしれない(あるいは消費されたうえで次の配置のエネルギーが生じた)。

この単が分子を、細胞を、組織を、人体を、あるいは無機物を構成するとき、系たるゆえのつまり集合体であるがゆえのエネルギーを持つように見えるかもしれない。いや、現に関係式によって、個別の単が個別のときに持ちうるエネルギーよりも多くのエネルギーを持つことはあるだろう。しかしそれでも、ベクトルエネルギーを持つのは切り崩せば単であり、単以外にはありえない。より明確に言えば単でないものはないために、単の集合が持つエネルギーはそのフレームにおける単に還元される。

あるフレームにおいて、フレームそれ自体は単の配置および単が持つ矢印の力量と同義である。それは次のフレームを形成するのだが、この矢印エネルギーはどのようにして生じ続けているのか、その試論が関係式である。

 

関係式について。単の配置は常にすでにそこにある。単はベクトルエネルギーを配置と同時的に保持するように思われるが、そうではない。単のベクトルエネルギーの発生はその配置と関係による。すなわち、フレーム内では単の配置→関係の作用→矢印エネルギーの発生が行われている。ここで関係の作用とは、単と単の関係であり、あるいは単と単と単の関係であり、関係式、神、定義(あるいは定理)と呼ぶことができるかもしれない。一方で関係は必ずしも定まっているとは思われない。次のフレームの瞬間にあなたという単の集合体はその接合という関係を失い分解するかもしれないし、あなたの隣にある接合のない他者という単の集合体が次のフレームではあなたと統合されるかもしれない。この超越論的な関係こそが関係が神たる所以である。そしてそれは絶対世界の瞬間それ自体には包含されない。逆に言えば、単の配置と矢印エネルギーは関係ではなく、神そのものではない。では、単の配置およびベクトルエネルギーと関係のいずれが原初的かと問われれば、無から単を発生させる関係であるように思われる。

 

以上の全体像(最小単位存在の配置と矢印エネルギー、および関係)を受け入れるとして、それは実践理性的にどのように応用できるだろうか。応用を考える前に、まずは時間と過去の捉え方を少し変えることを試みる。

まずは時間が周期的ではなく一方向的であることを自覚してみる。一定の間隔で反応や自転が行われているとして、全く同様の配置になることがあったとしても、それは差異がない配置であり、同一の配置ではない。すなわち、現実における時間と捉えられているものは相対速度の把持である。俗的に言えば、この瞬間それ自体は二度とは現前しない。

次に過去はすでに常に存在しないが、すでに常に矢印エネルギーとして、あるいは郵便的にそれ以降のフレームに影響を及ぼす。

では意識は、そのフレーム自体に存在しないように見える意識は何に隠れているか。上記の全体像に則るならば意識は矢印である。少なくとも単でなく、関係式でないならば、それは矢印の部分体と考えられる。だから何だというのか。だから一時的であり、分在的でありる。すなわち意識はアリの巣が総体と呼べないのと同じようにそれ自体と呼べるほどの結合ではない。にも関わらず、情動はただ一つの矢印でさえ成り立つ。

情動の契機は確かに、あるいは静かにその瞬間に矢印として発生し、単-単間に拡大膨張する、あるいはその刹那関係によって消滅する。あなたはその発生源をたどらなければならない。