明日は余暇ボーイ

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脱構築とタトゥー(無関心ではなく杓子定規を無くすということ)

リベラリズムと保守主義はどちらが正しいのでしょうか。よく働く人と家庭を大事にする人はどちらが正しいのでしょうか。金持ち父さんと貧乏父さんはどちらが正しいのでしょうか。

どちらが正しい、と決められないことは現代の普遍的な考え方になってきます。

例えばタトゥーに対する認識を自覚的に探ってみましょう。社会的評価ではなくあくまで個人的認識を。

10年前あるいは5年前のあなたの認識として、タトゥーをしている人はどのように映っていたでしょうか。堅気でない、怖い、かかわるべきでない。

現在のあなたの認識として、どのように映っているでしょうか。HIPHOP、チャラい、海外からの観光客。

マイナスのイメージはなくなっているでしょうか。あるいは無関心なのか。

無関心であったとします。

 

これは脱構築の一例です。

構築された社会的価値観から脱する。否定的なレッテルが薄れていく。主夫、テレワーク、タトゥー、反韓、ネイル。

2000年前後、スケートボードは”危険な遊びに若者がのめり込む”として否定的に報道されていました。2020年東京オリンピックでは競技に選ばれています。

 

話をタトゥーに戻すと、脱構築されたあとの価値観は”無関心”なのでしょうか。

ある人にとってはそうでしょう。またある人にとっては”かっこいい”、ある人にとっては”怖い”。

単に無関心なのではありません。タトゥーに対する価値観は脱構築されたあと、社会的な”杓子定規がなくなった”のです。つまり個々人の考え方に委ねられることになりました。

押し付けられた文化から脱し、個々人の中に文化が芽生え始めています。

 

では逆に、押し付けられた文化は「悪」でしょうか。

いいえ、そうではない。構築された文化もまた、構築された社会的意義があります。

何が正しいか、何が間違っているか、何が善か、何が悪か、判断の基準は個々人の中にあります。ただそれだけ。

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの勘定にほかならない。(畠中尚志訳, "スピノザ エチカ (下)", 1951, p.23)

 

それにしても、「昔はよかった。」と「昔と違って今は、」は同じくらい醜い言葉ですね。