黄金律とは
俗にいう倫理上の黄金律とは、
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」
(マタイによる福音書7:12)
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」
(ルカによる福音書6:31)
などの聖書を引用した道徳的言明を指します。
上記の言明に対して”余計なお世話”などの反論がありますが、多様な価値観に配慮したものとして白銀律「自分がされたくないことを人にしてはいけない」も知られています。
白銀律を包含する形で黄金律を捉える考え方も存在します。
具体的には、以下の指示的・禁止的・共感的な道徳規則に拡張して、ひっくるめて黄金律(Golden Role)と呼びます。
- 自分が他人にされたいことを他人にする
- 自分が他人にされたくないことは他人にはしない
- 自分自身に願うことは、他人にも願う
一方で、聖書の引用にせよ、意味を拡張するにせよ、「自分が他人にされたいことを他人にする」を含む時点で、”余計なお世話”は発生しうるので、黄金律が批判的な現代価値観にそぐわないことは明確でしょう。(どちらが問題かは置いておく。)
黄金律からみる思考の強欲さ
そのような話を主軸に置きたかったのではなく、「黄金律ベースで考えてもできないことがあるし、できないことがある時点で人は強欲だよね」ということを考えたいのです。
現代社会における黄金律の考え方は置いておき、黄金律それ自体の行為可能性を考えてみましょう。
具体的には以下の図のように行為の集合を捉えてみましょう。

シンプルに考えるために今回は”食べる”や”生きる”、”寝る”などの自動詞はU外とします。ただし、誰かに向けた食事(大食いなどが当たるのでしょうか)など実際の行為が他者に向けたものであるならばその限りではないかもしれません。
また、されたい かつ されたくない という行為は無いと判断できますので空集合になるでしょう。
上記の図から考えられることは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」というのは不可能だ、ということです。
「何事でも人々からしてほしいと望むこと」について、下記の2つの集合に分割できます。


下の図(B and complement of X)に一切の行為が存在しない人はいないでしょう。
よって、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という黄金律を、すべての何事に対しても実行することはできません。
逆説的に主張すると、集合「貴方にされたい自分が不可能な行い」に存在する行為の分だけ、おこがましいのです。
自分ができないにもかかわらず他人から施しを受けることには躊躇がない、いやむしろそれをしてほしいと望んでいる強欲さ。
それを考えもせず、”余計なお世話”にばかり目がいき、糾弾する傲慢さ。
むしろ、上記で判明した強欲さに対して、「望むなら自分が可能な範囲にせよ、あるいは望むなら自分もできるようになれ」という逆説的な聖書解釈が生まれます。
単に黄金律に則ろうとするだけで垣間見える思考の強欲さは、大変におこがましい。あなたたちは自身の可能な行いの狭さにも気づかずに他人にしてほしいことばかり考える。
その生意気な思考を自覚せよ、と暗に説いている。