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情動するとは別の仕方で(2)

明言するにはあまりにも悲劇的ですが、時間は時間性=連続的なフレームを以てあなたを包囲しています。あるいは、そのフレームの連続性こそあなたの正体(存在)であるとも言えるかもしれません。連続性が失われるその隙間にあなたは存在しない。

あなたとは連続性であり、連続性とはフレーム1とフレーム2との差異であり、フレーム2とフレーム3との差異です。いや数字で表した以上、既に的確なイメージから離れてしまっているでしょう。フレームとフレームとの差異は、もはやこれ以上裁断できない断面-断面間の描写の、向きを持ったエネルギーの違いです。

 

今のフレームからして前の(と認識する時点でフレームは無数に進んでいますが)フレームからどのように自同性を引き継ぐのか。あるいは、フレーム-フレーム間で、その刹那の差異で、その永遠の差異で、どのようにしてあなた自身が担保されてしまうのか。それは単に、フレーム1から引き継がれた、フレーム1までによって構成された、認識機能がフレーム2を認識するからです。

一方でそれゆえに、あなたはここまでで引き継ぎを受けてしまった<到来しない他なるもの>からの圧力を常に受けています。その圧力は相互性を伴わない一方向の責任です。逆に言えば、到来しない他なるものを差し置いてあなたがフレームにいるということそれこそが責任であり、その責任によって到来しない他なるものとの自同性をあなたに収束させることができる。到来しない他なるものは端的に言えば記憶によって、常にあなたへ収束し、すでにそのフレームにあなたが登場しています。

 

到来しない他なるものには、主観性だったものだけでなく主観性だったものから引き継がれた他者だったものも含まれます。つまりあなたに圧し掛かる一方向の責任は、単に等身大の圧力ではなく<到来しないすべての他なるもの>からの圧力です。この強迫観念を前提として、パラノイア的アイデンティティが形成されていきます。

この代替できない刹那的なフレーム-フレーム間の差異を、自同性それ自体からの押し付けられた引継ぎを、永遠の差異としてスキゾフレニーに捉えなおすことで、欠落を促すこともできるでしょう。なぜなら差異の形成は単に認識機能の問題であり、単簡系として考えるならばフレーム-フレーム間の差異は刹那的であると同時に常に永遠性を持ちうるからです。

スキゾ的に考えるならば、現実的には過去把持しているフレームを意図的に欠落させることは難しいため、修史あるいは記憶からの逃走を目論むことになるでしょう。増殖した責任を修史あるいは記憶から引き継ぐことを拒否し、逃走線を引くこと。言い換えれば、差異を同一性以前の差異として認識し、修史あるいは記憶による一方的な圧力から逃走すること。実際にはこの逃走線には経済的リスクも付きまといますが、生活水準が高い国、例えて言えば万人が飢え死にせずに生活できる国では可能であり、現代社会ではスキゾ的な生き方は広く浸透しているように思われます。

 

では情動に対する思考を試す観点で考えると、連続の中であなたはどのようにして情動するのでしょうか。

フレーム間のエネルギー源として、第一に他者からの直接的な伝達、第二に間接的あるいは郵便的な情動による発生、が考えられます。

他者から直接的な伝達については、簡単な例では歩くその瞬間。

間接的な情動による発生については、簡単な例では秋晴れに懐かしさを思い出すその瞬間。

それらはエネルギーとして力量と方向を持ち、次のフレームを決定づけます。具体的には秋晴れに清々しさを感じるそれだけでは大きなエネルギーは持たないかもしれませんがメランコリーへの抵抗にはなるでしょう。

 

第二の間接的な情動を考えるとき、修史あるいは記憶からの逃走とは矛盾が生じるように思われます。具体的には、記憶によって間接的に情動することが望ましいならば、現代のスキゾ的な生き方はそれに反するのではないか、つまり逃走によって記憶から離れることで情動しにくくなるのではないか、という疑問が生じます。

それは真っ当な考えです。明確な同一性を拒否することは、明確な過去記憶を起点とした情動を間接的に拒否することになります。好ましくない記憶であれば得策ですが、武勇伝などの古き良き記憶を離れることにもなるでしょう。それによって情動されなくなることの何がいけないのでしょうか。過去の事象を具体的に語れなくなることは未来方向へのサンスとして肯定的に捉えることができます。同一性の拒否によって過去の事象を切り離すことは、具体的な事象からの情動を遠ざけます。

それでよいのです。より直接的に言えば、秋晴れに清々しさを感じた、ただそれだけでいいじゃないか。

具体的な事象からの情動がないとしても、ろ過された懐古は確かに沈殿しており、あなたへの肯定性を持って現前します。具体的な事象を取り除いた懐古ができます。修史あるいは記憶からの逃走線を引いたとしても、あなたに心地よさを与えるような情動するとは別の仕方で、は残ったままなのです。

ではその逆はどうか、好ましくない具体的な事象からの情動がなくなったとして、具体的な事象を取り除いた嫌悪が生じるでしょうか。もちろん生じるでしょう。一方で、他なるものからの圧力に潰されていなければ、生への努力(コナトゥス)によって次第に嫌悪は情動しなくなると考えられます。フレーム-フレーム間でコナトゥスは働きます。

もしそうであるなら、秋晴れに清々しさを感じるだけでよいのです。

 

静かな情動が、いやそれ以前の何かが、波動にならず水のままある。

懐古がないならば、秋晴れに清々しさを感じないならば。これこそがメランコリーの問題なのです。

あなたたちは新しい”ありかた”を探し、情動するとは別の仕方でを知覚できるものにするか、あるいは情動するとは別の仕方でそのものを発生させる必要があるのです。

この試みは、独りとしての個を肯定するために、直接的な他者との相互関係や集団への帰属を必ずしも要しない方法を探るべきであると強く思います。