情動が犇めき合っている、あるいは、静かな情動が水になって揺らいでいる。
あなたたちの自我が目を光らせる中で、メランコリーは佇んでいる。
大きな物語が失われたことで絶対的、あるいは絶対的と捉えられていた高さと広さが、私たちをかくまっていた大きな屋根と壁が瓦解しました。
神の高さが、年長者の高さが、教師の高さが、親の高さが、普通の広さが、流行の広さが、音楽の広さが、共感の広さが。
憂鬱はそこで問いかけます。
それがなんだというのか。このままではいけないというのか。
あなたたちは明確な答えを持ちません。それが”何”だというわけではないのです。このままでは”いけない”わけではないのです。
物語が失われたことで、人工的なサンスが失われたのです。
荒野ではなく、野原です。戦車の轍ではなく、田舎の畦道です。
あなたたちは今、草原に突っ立って、田を眺めて、”総合”からの呼びかけに焦燥しています。
総合して集約された自己から進めといわれています。
現前に思考を戻したとき、よく見れば確かに情動はあります。ただし僅かです。
波を増幅させるための意味の場を訪ねるほどの動きではありません。あるいは、その足を押し進めるほどの体力もありません。
そもそもあなたたちはそれを望んでいません。
しかしながら、誰がメランコリーを望んだのでしょうか、宗教か、産業か、経済成長か。
考えてみるに、メランコリーは副産物なのです。
情動が行き着いた先の宝箱だったのです。共に冒険をしていた仲間は、その大義が失われたことによって散るのでしょうか。あるいは誼だけが残るのでしょうか。
大きな波動は無風によって無となるのでしょうか、あるいは波の立たない水に内在するのでしょうか。
少年の抱いた大志は、労働の原動力にならなかったとき、少年の無気力さに内在するのでしょうか。
あなたたちは今一度、現前の、過去の事象と向き合い、それが持つ力の限界を知るべきでしょう。
存在者には過去があるように認識されます。ただしその認識は共通認識(ただし共通という確証はない)です。事実性ではありません。
つまり、存在者群には確かに○○という過去の事象があったように認識されますが、それはあったとは確定できません。
凶器も、傷も、折り目も、レシートも、手紙も、写真も、映像も。
それらが存在者として現在(ここでは写真、あるいは1秒間の映像カットでもイメージしていただければいいでしょう)に”ある”ものの、それらが過去の事象を確定することはできません。それらを証拠として、過去の事象があったと推察できるだけなのです。
実生活ではそれで十分なのです。あるいはそれでなくてはならないのです。
科学的証明と共通認識を用いなければ、そこで起きた(と理解される)事件が、死者への追悼が、輝かしい思い出が、まるで意味のないものかのように扱われてしまいますから。
それでも、あくまで試論として”情動するとは別の仕方で”を考えてみるとき、過去のとらえ方を”仮に変えてみる”必要があります。
過去の事象を無化させずに、ただし”総合された自己”よりも弱いとらえ方で、現在の事象を断片として認識する必要があります。
現前しているのは、「今それ自体(そこに力量方向のあるエネルギーがある)」だけです。
そこに過去の事象は集約されません。過去の事象は、今それ自体からすれば”あった”かどうかすら本来わからないのです。ただ、記憶があるだけで。
一方で、力量と方向のあるエネルギーは今それ自体に内包されています。次の瞬間はそのエネルギーによって決定するのです。
ではそのエネルギーは何によって発生しているのか。
第一に他者からの直接的な伝達、第二に間接的(あるいは郵便的?)な情動による発生、が考えられます。
他者から直接的な伝達については、簡単な例では背中を押されて前に出るその瞬間。
間接的な情動による発生については、簡単な例ではCMを見たことによりハンバーガーを食べたくなるその瞬間。
それらはエネルギーとして力量と方向を持ち、次の瞬間を決定づけます。
したがって、現前している「今それ自体(そこに力量方向のあるエネルギーがある)」には過去の事象は含まれないものの、今それ自体に含まれる記憶によって情動し、間接的なエネルギーの発生を可能にします。
いや情動するから、というのは端的過ぎました。
情動し、自我がその揺らぎをエネルギーに変える決断を以て、エネルギーが発生するのだと思われます。
ところで情動には個体差があるのでしょうか、つまり情動する時点であなたたちという個々に揺らぎの違いはあるのでしょうか。
もちろんあります。身体性、記憶、自己(あるいはこの段階で自我がかかわるのかもしれない)を以て情動します。
ここで憂鬱な自我はそれをエネルギーに変えません。
あるいは情動する時点で揺らぎを和らげるのかもしれません。
私たちは情動をよく聴くことから始めよう。作品を見るだけでなく、情動のゆらめきそれ自体に耳をすませるのだ。<私>の身体に沈殿した何かが作品に反応している。情動の到来は、<私>がー多くの場合は他者と共にー世界にどう向き合ってきたのか、そして、これから世界にどう向き合いうるのかを告げ知らせている。(岩内, "新しい哲学の教科書 現代実在論入門", 2019, p.272)
メランコリーに対して情動を意識させることは有用かもしれません。一方で、起源前的に情動していない可能性を加味する必要があります。
つまり、カオスにおける情動が、明らかに方向づいていない、ごく微量なのです。
あなたたちは大きな物語によってカオスを一方向のサンスを以て支配してきたはずなのに、サンスを失った今、カオスそれ自体がカオス足りえない状態になっているのです。
あるいは、無気力なカオス、情動というよりその起源前的な矢印づいていない何かによって構成される混沌状態があります。
静かな情動が、いやそれ以前の何かが、波動にならず水のままある。
あなたたちは新しい”ありかた”を探し、情動するとは別の仕方でを知覚できるものにし、エネルギーを発生させることになるでしょう。それがたとえ次の瞬間に情動となったとしても、間違いではないのです。